ここで紹介しているチームは、当店が過去に製作したチームの一部です。ここで紹介したチーム以外も製作出来ますが、このサイトで製作可能なレプリカユニフォームは当該球団が既に消滅し、登録商標の権利等の帰属が存在しないチームに限らせていただきます。詳しくは御相談下さい。
黒鷲とは、1940~42年に存在したチームです。球団名日本語化の指示で、球団名がイーグルスから黒鷲に変更されました。1943年には球団も解散しました。
商品No.13の「1967~68年の東京オリオンズ・ビジターユニ」のホーム版です。確かに、1966年に来日したロサンゼルス・ドジャースユニフォームの影響を受けています。
大正10年 日本最初のプロ野球チームとして、「日本運動協会」が設立されました。当時は米大リーグでもユニフォームに背番号はなく、このユニフォームにも背番号は付いていません。左袖の「NAA」は「Nippon Athletic Association」の略称です。
このユニフォーム採用の2年目の1962年に、水原監督率いるフライヤーズは、張本勲 尾﨑行雄らの活躍でパリーグを制覇して、日本シリーズでも阪神を退けて日本一に輝きました。
戦後まもなくの1947年に「国民野球連盟」という新リーグが誕生しました。唐崎クラウンも同年に加盟しましたが、このリーグはたった1年で崩壊しました。結城ブレーブスに比べて、地味なユニフォームでした。
戦後まもなくの1947年に「国民野球連盟」という新リーグが誕生しました。結城ブレーブスも同年に加盟しましたが、このリーグはたった1年で崩壊しました。モスグリーンのユニフォームは今では珍しいですね。
この年(1940年)から胸マークのチーム名がアルファベットやローマ字が禁止され、漢字のみになりました。同時に、「プレーボール」「セーフ」等の野球用語も日本語に改められました。
この年(1960年)から、ユニフォームの胸マークの下に胸番号を付けるという規定がセ・リーグで設けられました。
このユニフォームをデザインしたのは、当時のグラフィックデザイン界の第一人者の亀倉 雄策氏でした。普通、ユニフォームシャツの胸マークの頭文字は大文字にするのが 一般的なのですが、氏はあえて胸マーク文字を全て小文字でデザインしました。このユニフォームをして「日本プロ野球史上最高のユニフォーム」という声もあります。
1959年の6月25日、天皇陛下が後楽園球場のジャイアンツvsタイガース戦を観戦されました。いわゆる「天覧試合」です。御存知のように、同点の九回裏、長嶋茂雄選手が村山 実投手かられレフトスタンドに劇的なサヨナラホームランを放ちました。この時、村山投手が着ていたのがこのユニフォームです。